昭和52年08月16日 朝の御理解



 御理解 第54節
 「徳のない間は心配する。神徳を受ければ心配はない。」

 神徳を受けるという。昨日は前夜祭が終わりましてから富久信会でした。それからもう昨日は大抵疲れてました。けれどもまたあの会場に出らせて頂きましたら、元気が出てまた一人でお話しをほとんどさせて頂いて、もう十二時になりました。それから昨日はどうしたもんか、まだ富久信会が終わりましたけれども、あの神饌の方やらまだ出けておりませんでした。それでまあ色々それが済むまで、そして済んでからまたお風呂を頂いて、それからその何か髭剃ってもろうたり、それからあの一時過ぎました。
 それからお祝詞を一通り読ませて頂いて、まあ稽古をさせて頂きました。そしたら文男さんと久富さんが足をもみに来て頂いて、まあざぁっともんでもろうて帰られる時がもう二時過ぎだったでしょう。もう今日は疲れきっておるからと言うたら、私はお徳は受けられないと思うですね。そのお徳を受けると言う事はもう疲れておる、そこから又一段とあの元気な心で神様にお縋りさせて頂くと不思議な力が湧いてくるです。もう本当にあの昨日も私富久信会でお話しをしながら思いました。
 もう自分の話しておるその話しが、非常にもうこのはりきった話しをしております。なら私昨日は富久信会、商売人の方ばっかりの会合ですから、私がいわゆる北京から引き揚げて帰って、お商売をさせて頂いておる時分の、まあお話しをまあそれこそ置いた物を取るようなおかげを頂いておったのにも関わらず、何故そのお商売が出来なくなってしまったか。例えば昨日の御理解の中に「神を商法にしてはならぬ」と、教えておられるのに、神を使い神を商法にしておるような言うならば信心であったから。
 行き詰まったんだいけなくなったんだ。神様の働きはそこに身近に感じさして頂くほどの、言うならばおかげを頂きながら、お役に立ちたい本当になら大きな御用にも立ちたい、そういう一念で商売をするわけです。ですから人が百円儲かったけん二百円儲からにゃ出来ん。まあそんならまだ良いけれども、なら十円の物をなら言うなら八円で売らにゃいけんと教えておられるのに、十円の物を十二円にも売ると言う様な、終戦後の困難期ですからね。勿論値段があってないようなものでして闇の商売ですから。
 それでもまあ人が十円で売るのを十二円で売りえるのが、まあ商売腕が良いのだと言う様な考え方なんですよね。そして儲かった分だけお供えすりゃ良かけんでと言った様な、まあ今から考えてみると、成程けれどもその何て言うでしょうかね、お役に立ちたいというその一念がです、もうその時その時を神様のおかげと思わなければおれない、言うなら置いた物を取って行くようにおかげを頂いたのにも関わらず、大きな引っ掛かり出来る。大きな行き詰まりが出けてくる。
 そしてもう愈々手を上げると言う事になり、神様がお商売差し止められて、段々本当の神様の御用にお使い回しを頂くと言う様な事にまあなったんですけども。まあその時分の話しを、まあその時分の証人は秋永先生一人おるだけですから、その時分の事を知っておるのはもう秋永先生だけでしょう。まあその時分の話をここに実証者を置いて、まあ一生懸命話させて頂いた。だからそういう言うなら、信心にもとった生き方でいかにお商売をしておかげを受けても、それでは長くは続かない。
 いや行き詰まるんだと、その時その時おかげを頂きました、とは言うてもおり思うてもおるけれども、本当なおかげにならないんだと言う事で御座います。そこでどうでもやはりお徳を受ける信心お徳を受けて商売を、例えば商売なら商売をさして貰うという、お徳を受けると言う事がまず大事だと。だからそのお徳を受けるのには、どの様に素晴らしいお徳を頂く道を教えて頂いても、自分の心の中に「元気な心で信心せよ」と仰せられるその元気な心が無かったらダメだと。
 なら元気な心でお役に立ちたいの一念で、一生懸命信心させてもろうて、そのお役に立ちたいという一念が何とはなしに神様の心にも適う。一生懸命願うから縋るからおかげは頂くけれども、そのおかげではしかしいかにもおかげに見えておっても、それを締めくくって見るとおかげになっていない。どうでもお道の信心に基づいたお商売でなからなきゃならない。言うならば合楽理念に基づいての商売でなからなきゃならん。合楽理念に基づいてのお百姓でなからなければならない。
 合楽理念に基づいての言うなら生き方が身に付かなければ、お徳にならないと言う事であります。だからいかに合楽理念を例えばマスターしたの、分かったのと言うてもです、言うならば、ただすんなりと覚えておる、マスターしましたというだけではいけない。それを行ずるに当たっては、やはり元気な心がいると言う事です。言うならば人の辛抱の出けない所の辛抱力がいると言う事です。
 昨日朝から、昨夜の前夜祭の後にもお話し申しましたように、神様から蓮根食うて頂くようなおかげならいざ知らず、神様が喜んで下さる、神様と氏子が喜び合いながら、生みなして行かれる所のおかげというものは、そんな事ではおかげは受けられない。そのためにはどうでも言うなら、蓮根のその節の所を大事にしなければいけない。節を大事にして行く人は伸びる。これは私が青年時代から商売さして頂いて、自分の帳場の横に書いておったのがそれ。節を大事にして行く人は伸びると言う事。
 でその節というのが一日の内にも、何回も何回もあるというお話しを昨日はさして頂きましたですね。神様が言うならば顔を立てておかげを下さってあるなとか、神様が蓮根食うて下さっておかげを受けておるおかげだなぁ、というおかげはだから本当なおかげじゃない。そういうおかげも私共は頂かなきゃなりません。また一生懸命お願いして、いわゆる祈念力でおかげを頂かなければならない事もあります。
 けれども言わば祈念力ではない、ただ何と言うですか、まあ私の言うなら終戦直後の闇の商売をしておった時分のように、お役に立ちたいという一念がお商売であり、そのためには人よりも余計儲からなきゃならない。人が言うなら十銭の物を八銭で売れと仰るのに、十銭の物を十二銭で売るという。そして余計儲かったつだけはお供えをする。まあ言うならば、悪いごとあって良かごとあるわけですね。言うならそういうけな気な心に神様が感応ましまして下さるおかげというのは、そんなもんじゃない。
 願わん頼まんそれでも神様と私共の間に、生まれてくるそのおかげは、言うならもう合楽のおかげである。神様と氏子とが拝み合うて、昨日も申しますように「神様おかげでもうこんな立派なお野菜が出けました」と、「いやぁお前達が一生懸命手入れをして、いわゆる肥料をやったり、草を取ったりしたから、出けたんだ」「いいえとても、いかに私共が力を入れて肥料を施した所で、いかに手入れを致しました所で、畳の上では出けません、やっぱり天地のお恵みを御恩恵を受けてかたこそ。
 この綺麗なお野菜が出けたんですよ」「いいやお前達が一生懸命にがんばったからじゃ」と言う様にです。「あなたのおかげ」「いいえあなたのおかげ」とこの、お互いが拝み合うて行けれるそういう信心。そういう信心から、私はそのお徳が受けられる。合楽理念を一遍通りマスターしたというてもここを乗りきれんそうにもないごとある。ここをもう言うならばいらん所、蓮根の節と言やぁもう真っ黒して、食べもされない所、ヒゲもじゃもじゃがしとる所。
 だからそこを切って捨てて行く様な事では、まあおかげは蓮根食うて頂くような、おかげは受けても、言うならば神様が力を与えて下さらない。いらん所をいる事として頂いて行く。その節を大事にして行くと。そういう生き方の上に、私は御神徳が受けられると思うです。しかも御神徳を受けると言う事は、なら合楽理念を持ってする他はない、なら合楽理念を一通り覚えたからというて出来ることじゃない。
 行じて行く内には、例えば昨日あたりのように、もう今日は私は疲れておりますけんご無礼しますと言った様な事ではなくてですね、そこからまたそこの力をこう振り絞って行くような生き方。そういう言うならば信心に、おかげがお徳が受けられる。そのお徳の加減というものがです「神徳を受ければ心配はない」と仰せられる。本当に安心の日々が頂けれる。厳密に言うて、心配はないと言う事ではない。例えば私が御神徳を受けておるというわけではない、その証拠には心配がある。
 けれども普通の人の心配とは大分違った心配である。昨日も私この御簾が取り変えられるので全部また変わりました。この御簾を取らせた所が、そのねずみがかじとったち言うわけ、文男先生と綾部さんがまあ受け持っておられたもんですから、もうそれから他の柄のちょっと違った金欄の布がありましたから、こう修繕をしておられました。そしてまあ祈念祭までには、また新たな布を買わしてもろうて、それでさしてもらうと言うてしておりました。ちょっとした事あんたねずみのかじられるとこに置いてから。
 と言うておりましたが、後で気が付いたのですけれども、この御神前のには、全然ねずみは来てなかったけれども、ここの楽室の所のにねずみが来とった。だからここはまあまあ、楽室の所だから、御神前のと言う事はないから、人も別にちょっと見ても分からん位、こんならもうわざわざ、その布取り寄せてする事はいらんていと言う事でしたけれども、言うならばこれは神様がね、蓮根食うて下さったおかげです。
 「あれはあんた達のそげなねずみの食うような所に置いとくからだ」と言うのではない。やはりこれで言わんなら誰も知らん、けれどもこれがもしこれが御神前のであったり、内殿のであったりするなら、替えんわけにはいかん。これは記念祭前までにもう一遍取り替えなきゃいけないけれども、おかげで楽室のであった。この辺の所がね、まあ神様が蓮根食うて下さる。まあそんな事は昨日は何回もございましてね、他の色々な事から。そしてなら私が頂いておるおかげは。
 まぁだ神様が、まあ一生懸命まあ努めるから、まあけな気な信心をするから、と言うて神様が蓮根食うて下さっておるようなおかげだと。本当に神様が喜んで下さるようなおかげならです、そう言う様な事があろう筈がないと言う所に立って信心を進めて行かなきゃいけません。そすと色々沢山あります。それにはだから矢張り迫力のある信心をさしてもらわなければ出けません。不思議に神様にお願いをして、もう疲れておるともう大体、お祭を仕えただけでも疲れるです、私共のように力のない者は。
 もう本当にあのお祭というのは、そのくらい力を入れますからね。その後にまた一つの会合があるという。わざわざ熊本当たりから、今でもみえておられるその富久信会に。それに私がへこたれておっちゃならんからそこで元気を出して、まあおかげを頂かしてもろうて、まあそれからまた大祭の所謂、昨日まで準備しとかなければならない事をさして頂いて。それから丁度二時になりましたから、文男先生と繁雄さんは、お夜食であり私は丁度二時に、もう朝の食事を終わりました。
 だから食事を頂いておくと、そのこの様に喉が渇くわけです。ですから御大祭の時に私は、お昼まではお食事を致しませんです。お食事をしませんと喉が渇かんですから。だから今丁度喉が渇きよるから、お祭の頃には喉が渇かんですむ、勿論お食事は朝の二時にもうとったわけですから、もう今朝から頂かんですむわけですけどね。もう本当にまあつういっぱいの御用をさして頂いて、そこから生き生きとまた、今日のお祭を仕えさして頂かなきゃならない。そういう生き生きしたものから生き生きしたもの。
 と言う所にです、私はお徳の頂けれる道があるように思います。皆さん私の過去の踏んで来たような神を商法にするような、信心はもうなさってはいないと思う。私共も昨日も話した事でしたけど、真っ赤な袱紗に、御神米やらを色々そのここへ入れとる。その大坪さんなんですかそこにこりゃああた御神米、私は金光様の信心するけん。私は金光様の信心するけん決してごまかしはしませんよと、私はもう皆さん私は信心しておるけんで、決して皆さんの信用を裏切る様な事は致しませんよと言いながら。
 しらごつばっかり言うとる。だから神様に神を商法にする事と同じ事でしょうが。自分を信じさせる手段に、私は信心しとりますっち言いよるとです。これは勿論私の三十年前の信心ですけれどもね。それでもうんなら止むに止まれん、お役に立ちたいという一念は、一生懸命燃えておるわけです。だからどんなに人を、言うならそのまぁだますと言うとこう悪いですけれどもね、人が十円で売るとを十一円で売ると言う様な事を平気でやっとたんです。自分な良か事しとる。
 神様に喜んで頂いておると言った様な考え方なんですからね。だからその何て言うか、そういう心に神様がやっぱ感応しなさいましてね、置いた物を取る様に矢張りおかげを頂いたけれども、それは長くは続かなかったと言う事です。だからもう一時も早くです本気で合楽理念に基づいた商法、合楽理念に基づいた家業と言う事にならなければお徳は受けられん。それも「覚えました一通りの事は」と言うただけではいけん。
 どうしても自分の心の底から湧いて来る様な、言うならば瑞々しい元気な心が必要だと。不思議にこちらがその気になると神様が元気を必ず与えて下さる、それにはやはり色々な工夫もいる。例えば朝の二時に朝食をせんならんというのも、やっぱ一つの工夫です。そこに私は信心が段々楽しゅうなり、有り難うなり愉快になって来る様な信心が生まれてくる。信心が愈々愉快になってきたらもう間違いなしにお徳を受けると思うですね。
   どうぞ。